たらしこみを世に知らしめた琳派とは?
たらしこみって何?
たらしこみは日本画の技法のひとつです。
一色の絵の具を塗って、乾かないうちに
別の一色を垂らし、滲みの効果を出す技法です。
その歴史は古く、桃山時代から江戸初期に
活躍した俵屋宗達が考案したとされており、
江戸時代に琳派が多く用いたのです。
現代でもその息吹は絶えてなく、
色もさながら墨のたらしこみなどもあり、
有名な日本画の技法です。
現代では、水彩画(ウェット・オン・ウェット)や
ネイルアートなどにも使われています。
琳派とは?
そもそも「琳派(りんぱ)」とは一体何で
しょうか?
その歴史は桃山時代まで遡ります。
桃山時代といえば、豊臣秀吉が足軽から天下を取り、
徳川家康に滅ぼされる約20年間の短い時代です。
戦国時代の短い桃山時代でしたが、文化は
発達しました。
茶の湯の隆盛やヨーロッパや朝鮮、明、琉球文化
などとの接触などもあり、それ以前の下克上時代の
簡素な美意識がありましたが、
時代の流れとともに、芸術文化に豪華絢爛な要素が
求められる時代になりました。
そういった中で、京都において
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)と俵屋宗達(たわらやそうたつ)
の二人の画家によって創設されたのが、琳派です。
琳派は、背景に金箔・銀箔を使用し、
大胆でインパクトのある構図だったり、
型紙を使った模様の繰り返しだったり、
たらしこみの技法だったりと今までにない、
豪華絢爛な作品が作られました。
本阿弥光悦と俵屋宗達が始めた琳派ですが、
この流れの中で大成したのが、
尾形光琳(おがたこうりん)でした。
尾形光琳の「琳」の字を取って「琳派」と呼ばれる
ようになりました。
京都で生まれた琳派が江戸に移り、
酒井抱一(さかいほういつ)や鈴木其一(すずききいつ)
といった画家が活躍しました。
琳派は江戸に定着し、近代まで続きました。
琳派の特徴
琳派は流派とかがなく、家系も関係ありません。
「私淑(ししゅく)」と言って、血のつながりや
縁故がなくても、志さえ同じであれば、流派を継承できます。
「私淑」は尊敬する画家に直接会って弟子入り
するのではなく、個人的にしたって手本にする
というシステムです。
ですので、尾形光琳に「私淑」するのであれば、
時も距離も超えて、尾形光琳の絵を元に手習いすれば、
琳派の継承が出来、琳派の芸術家として活動できるのです。
琳派が長く繁栄したのは、こういった背景が
あったこともあるでしょう。
尾形光琳は京都の高級呉服屋の生まれで
親の遺産を豪遊生活をし、使い果たしてしまいます。
その時、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」を見て感銘し、
彼を目指して画家になる決心をしました。
尾崎光琳は俵屋宗達の風神雷神図屏風を自分なりに
アレンジし、琳派らしさも取り入れ、自分風の
風神雷神図屏風を描き上げました。
私淑によって生み出された尾形光琳の作品はその後、
再び私淑によって酒井抱一へと受け継がれていきます。
琳派の絵とは?
琳派には特徴的な技法があります。
それをご紹介しましょう。
たらしこみ
たらしこみは俵屋宗達が生み出した日本画の
技法です。
上記でも説明しましたが、薄い色を乗せて
乾かないうちに濃い色をおいて滲ませていきます。
お互いの色がにじみ合って、境界線が見えなくなり
味のあるマチエールが出来ます。
にじみのグラデーションを描きたい場所などに
最適です。
筆のあとが残らない偶然性を重視した
グラデーションが出来ます。
合わせる色によって不思議な色になったりと
可能性が広がる技法です。
二曲一双
日本の屏風は六曲一双(ろっきゃくいっそう)
が多く、6つのパネルで一つの屏風という形が
多いです。
それに対して琳派は二曲一双(にきょくいっそう)
という2枚で一つの屏風という形式が多いです。
例に挙げると俵屋宗達の風神雷神図も琳派らしく
二曲一双になっています。
屏風的には六曲一双のほうが安定しており、
使いやすいかもしれませんが、二曲一双だと
大きな画面に大胆な構図という形式も取れます。
琳派のダイナミックな構図が取れやすいのが
二曲一双となります。
平面的で大胆な構成
琳派というと、まず思い浮かぶのは平面的で
デザイン性の高い構図でしょう。
琳派には、立体感や遠近法などの油絵のような
西洋絵画的な技法はあまり取り入れていません。
どちらかというと、違う視線でモチーフの印象
などを描きます。
「三次元のものを二次元のものに置き換える」
といった西洋的なデッサンではなく、
より平面的でモチーフの特徴やリアル感を重視し、
写真とはちがう表現をしています。
また背景に金箔や銀箔を貼り、空間を装飾的に
しています。
モチーフも大胆かつ効果的に配置することで
デザイン性を上げ、余白をたっぷりとり高級感も
出しています。
琳派のデザイン性は見るものを釘付けにする事から、
現代のデザイン界にも大きな影響力を与えています。
琳派の画家たち
俵屋宗達
俵屋宗達は名作「風神雷神図」を描いた琳派
の代表的な画家です。
代表的かつ有名な画家ですが、生い立ちなどは
謎に包まれています。
生没年すらわかりません。
ただ一つ、京都にあった俵屋という絵画工房で、
屏風や扇子の下絵を作る画家だったというのが
濃厚な説です。
その腕前はとても評判が良く、皇室や武士などにも
信頼されていたとのことです。
名指しで注文が来るほどでした。
その他茶人や文化人との交流も深く、
俵屋宗達が描いた絵に本阿弥光悦の書を
コラボしている作品も残っています。
俵屋宗達の風神雷神図は、金箔が背景に貼ってありますが、
二神は金箔の上には描かれていないようです。
本阿弥光悦
本阿弥光悦は京都の刀剣を扱う家に生まれました。
しかし稼業を継がず、書家や陶芸家、漆芸家、
画家などの芸術の道に進みます。
京都に芸術家が集まる芸術村を作ったのも有名です。
本阿弥光悦は京都で3本の指に入ると言われた
書の腕前や、装飾の美しい漆塗りの硯箱や楽焼の茶碗など、
様々な芸術作品を生み出し、それぞれの世界に
大きな影響を与えました。
同世代の俵屋宗達とともに、のちに「琳派」を
作り出したのも大きな功績です。
尾形光琳と本阿弥光悦は光悦の姉が、尾形光琳の
祖父母の妻であるので、二人は遠縁にあたる
親戚になります。
尾形光琳
江戸中期の画家です。
尾崎光琳の「琳」の字を取って「琳派」と
呼ばれるようになりました。
それだけ「琳派」では、重要な位置に
配されています。
光琳は裕福な家の出身で、親の遺産を使い果たした後、
画家に転身します。
俵屋宗達の絵画に魅了され、私淑によって
画業に取りかかります。
光琳は芸術の才能を発揮し、人並み外れた作品を
数多く残しました。
特に富裕層に好まれる金箔銀箔を使った装飾的な
作品を多く手がけました。
光琳は屏風絵のほか、水墨画、扇子、着物、
蒔絵なども手掛けました。
子供のころから能楽や茶道、書道などもたしなみ、
洗練された感性の持ち主だったと言われています。
子供のころから磨かれた感性は琳派を確立し、
多大な影響を後世に残したとされています。
光琳の最高傑作と言われる「紅白梅図屏風」は、
光琳の晩年の作品で、金箔の金地を背景にして
左に白梅、右に紅梅、真ん中に末広がりの川が
描かれています。
この左右対称の構図は俵屋宗達の「風神雷神図」と
似ていて、影響を受けているとされています。
ちなみに川の波線模様は型紙を使って描かれています
川には少し銀箔の名残りがあり、銀箔を硫黄で焼いた
事が分かっています。
酒井抱一
酒井抱一(さかいほういつ)は1761年~1829年
の江戸後期に活躍した琳派の画家で俳人です。
32人の姫路城主の24代目である酒井忠以
(さかいただざね)の7歳下の弟です。
尾崎光琳に私淑した抱一は、得意の俳句の
洗練された世界観を取り入れる事で、
新しい琳派の作品を生み出しました。
その作風は江戸琳派と言われ、酒井抱一は
江戸琳派の祖と言われています。
生まれが武家で由緒正しいので、小さなころから
芸術に親しみ、狩野派や浮世絵師に師事していた事も
あります。
1797年の37歳の時、出家して江戸琳派の流れを
尾形光琳から受け継ぎ、独特な洗練された画風で
人気を博し、活躍しました。
また抱一は作品に円山・四条派や伊藤若冲などの
特徴も取り入れて、おしゃれな江戸琳派を確立しました。
鈴木其一
鈴木其一(すずききいつ)は酒井抱一の弟子であり、
後継者として名を馳せましたが、
その生い立ちについては不明です。
近江の紺屋の息子であるというのが俗説です。
鈴木其一は琳派には珍しく、酒井抱一を師事し、
絵を学びました。
酒井抱一の死後は、古い寺などをめぐるなどして、
独自の世界観を確立していきます。
鈴木其一の作品は大胆で斬新、オリジナリティー
溢れるものです。
また、興味をわくような面白み、機知にとんだ
工夫がされています。
晩年はよりダイナミックになり、
次世代の琳派を匂わせる画家となりました。
いかがでしたでしょうか?
大きな琳派の流れが理解できたと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。