美大ってこんなに楽しい
まず最初に一言言っておかなければならない事があります。
私の話は30年前の美大であり、バブル期の美大です。
当時は美大に入る競争率も今と比べものにならないくらい、
凄い競争率でした。
私はムサビの日本画科ですが、日本画科で当時17倍。
デザイン科だと24倍でした。
東京芸大だと、日本画科で33倍、
油絵科だと50倍にもなっていました。
それだけ競争が激しかったです。
美大に入るには、美術予備校というところに行くのですが、
講評の後、泣き崩れる生徒もいました。
また、美大に落ちて実家に帰る生徒もいました。
そのくらい美大に入るのは至難の業だったのです。
今は比較的倍率も緩いし、東京芸大でも20倍を
切っているので入りやすいと思います。
美大に合格して「一般教養の授業」
そんな美大に選ばれし美大生たちは青春を謳歌しました。
大好きな絵を自由に描けて、授業も面白い教授ばかりでした。
一般教科の心理学などは、授業中は映画を見ていました。
3本見て、レポートを出せば単位が取れたのです。
レポートも教授が「木炭で書かないように!一舛には一文字で!」
等、訳のわからない注意点もありました。
その他にも生物学や教育原理など癖の強い授業ばかりでした。
生物学は試験の最後の問題が
「自分の最高の住み家を図示せよ」でした。
個性的な学生が多いので、その答えは様々だったようです。
生徒たちは洞窟や藁葺屋根の家など、
「自分にとって最高の住み家」を描いたものでした。
反対に教育原理などは美大には珍しく厳しい授業でした。
やはり、将来教員や学芸員になる為の人の授業でしたので、
美大にしては、ちょっと厳しかったです。
どこが厳しいかというと、まず出席を取られます。
名前を呼ばれたら、手を挙げて
「はい。在席しています」と言わなければいけません。
私は日本画科でしたが、出席は日本画から始まるので、
日本画の学生は授業に1分1秒も遅れてはいけません。
この授業を取らなければ、教員免許や学芸員資格も
取れないのでみんな必死でした。
内容も難しく、なかなか理解が難しい授業でした。
この時の教授の教えは
「教育とは生徒にやる気を起こさせるもの」とのことでした。
でも、この教授の授業はやる気は起きませんでした。
その他にも、語学があったのですが私はドイツ語を取りました。
2種類の授業があったのですが、
1つは超簡単、もう一つは超難しい授業でした。
超簡単な授業は「ICH LERBEN DICH」
(私はあなたを愛している)が解れば取れました。
逆に難しい授業は早稲田大学と同じレベルの授業で、
かなり予習復習が必要でした。
私はドイツ語が楽しかったので、
この授業は欠かさず出ていましたが、
美大生は難しいのが嫌いなので、
初め30人いた生徒が最後は5人になっていました。
しかも、教授が胃潰瘍になってしまい、
試験の日に教授は無理して授業に出たのですが、
たった5人のための試験でした。
本当に教授がかわいそうです。
西洋美術史なども、試験が「オリンポス12神を図示せよ」というもので、
必死に試験用紙に絵を描いたものでした。
私は、コートの裏にオリンポス12神の絵を貼って、
それを見ながら解答しました。カンニングです。
でも何も言われませんでした。
民俗学の授業はなかなか頑張りました。
民俗学の教授も変わっていて、当時のMacを見た人間と、
リンゴを見たサルが同じ行動をするという説でした。
当時はまだ携帯もPCもない時代でしたので、Macが珍しかったのです。
私たちは見たこともないPCにいろいろ試しました。
電源はどこ?どうやって使うの?とそんな疑問が湧いてきました。
それが、初めてリンゴを見たサルと同じだというのです。
サルもリンゴは食べるものなのか?では、どうやって食べるのか?など、
試行錯誤を繰り返します。まあ、似てますね。
その教授は世界各国を旅してて、
言葉の通じない国にも放浪していたようです。
教授はある国で「それは何ですか?」という言葉を知りたくて、
現地の人の前で踊って見せたようです。
そうすると現地の人が母国語で「それは何ですか?」と聞くので、
それを覚えていろいろ聞いてみたそうです。面白い教授ですね。
民俗学は試験ではなく、レポート提出でした。
私は友達と組んで「和紙の作り方」というものを
題材にレポートを書きました。
埼玉県の小川町まで行って和紙の漉き方を取材し、
100枚に及ぶレポートを書きました。
結構点数に厳しい教授でしたが、「優」をくれました。
あと、強烈に覚えているのが「法学」です。
「呪い殺しは罪にならない」という一文を鮮明に覚えています。
今でも使えるな、と思っています。
美大での実技制作
美大では、1.2年生は半日学科授業、
半日実技授業となっています。
日本画科は本当にのんびりしていて、
1年生はお庭に咲いている花を描くという
課題だけでした。
2年生になって、池にいる鯉を教授が
吊って絵を描かせる「魚類制作」などもありました。
吊った鯉は制作が終わると、
みんなで食べてしまいます。野獣ですね。
3年生になると作家になるか、就職するかと選択を強いられます。
1、2年生のうちはあまり描いていなかったのに、
3年生になっていきなりバリバリ描き、
画壇などに出品する人も現れます。
しかし、そういう人は卒業してもあまり活躍しません。
コンスタントに描ける人が成功するのです。
4年生になると、もう卒業制作一色です。
F150号の大きな作品を1年かけて描きます。
締め切り間近になるとみんな大学に泊まり込んで制作したものです。
管理人さんが夜の見回りに来た時は、絵の後ろに隠れました。
私も夜のバイトに17時頃行って、
夜中の1時に大学に忍び込んで絵を描いていました。
そのくらい制作に夢中でした。
おかげ様で卒業制作は優秀賞を頂きました。
年に1度の芸祭
特に芸祭は1年に一度のお祭りであり、
その時は1年の制作の成果を発表したものです。
芸祭1週間前には授業も休講になり、準備に必死でした。
各科が居酒屋を作るのですが、
たった3日の芸祭にレンガ作りの居酒屋を作ったバカもいました。
私たちはカクテルバーを作って、
カクテルに独自の名前を付けて販売しました。
赤いカクテルには「カバの汗」、
黄色のカクテルには「オウムのパロパロ」など
楽しんで付けました。
それとおでんを販売しました。
今は、未成年飲酒禁止など制約が厳しくなっているのですが、
当時はそんなことは一切ありませんでした。
私は芸祭中に好きな人が他の女の人と歩いているのを発見して、
失恋し、お酒におぼれました。
ジンのストレートを4杯一気飲みし、
その後日本酒を飲みました。
実際私はその時点で、記憶をなくしていたので
覚えていないのですが、
道行く人々に「お兄さん幸せ?」「お姉さん、幸せ?」と
聞いて回っていたようです。
最終的にはタンカで運ばれました。
作品も展示しました。
2年生の時、グループ展をしたのですが、
私の作品を見て感動し、友達をわざわざ連れてきて
「これこれ!これが好きなの。いいと思わない?」と
言っている声などもいただきました。
3年生の時は、企業に目を付けられ、作品の写真を撮られました。
後日何もなかったですが。
3年生のころから人形制作をはじめ、人形を展示しました。
その際に「このお人形が欲しいんだけど、いくら?」と
聞いてくれた方がいました。
残念ながら私はその時席を外していて、
友達が「彼女は売らないと思います」と答えてしまいました。
私は売る気満々だったのですが。
大学院時代
私は4年の卒業制作優秀賞を頂き、
大学院に進みたかったのです。
当時は文部省の関係で院生数を減らされて
通常8人から半分以下の3人になりました。
正規の院生は3人で、後の3人は聴講生
という形になりました。
私は絵では3人に入っていましたが、
論文の点数が悪く、聴講生となってしまいました。
そこでの制作は厳しかったです。
進学に反対していた親からは仕送りを切られ、
バイトの嵐でろくに制作も出来ませんでした。
2年間でしたが、最後の1年はバイトを辞めて
制作に打ち込みました。
この時期から日本画壇「創画会」に入選し始め、
修了制作などもあり、大忙しでした。
秋に150号で「秋季創画会」に入選し、
その後、300号の修了制作を描きました。
その時、4日間徹夜をしました。
私は間に合わないと思い、非常に焦っていました。
筆の音が聞こえるぐらい絵の具を画面に叩きつけ、
気が付くと、私の周りから人が消えていました。
4日間徹夜して、疲れ果て一旦家に戻って
シャワーを浴びたところ、天からお告げがありました。
「そうだ!絵を洗えばいいんだ!」
そしてアトリエに戻って、絵を全部洗いました。
日本画は膠で描くので、水を掛ければ絵の具が落ちるのです。
すると、いい感じに今までの苦労が出てきて、
絵が完成したのです。
多分二度と描けない絵となりましたが、
教授が涙してくれたので、いい思い出となりました。
その絵を東京都美術館で展示したところ、
買い手が付きました。
これからの美大
美大は楽しいですが、卒業後のフォローが何もありません。
自分で就職活動している人は企業に入ったり、
学生時代のアルバイト先に就職したりします。
しかし、大半がニートになりますので、
確定申告の仕方や、絵の売り方なども
指導した方がいいと思います。
また、作家志望の学生も大勢いるので、
ポートフォリオの作り方なんかも
指導した方がいいと思います。
教授も「大きなエネルギーを感じる
スケールの大きな絵を描きなさい」
ぐらいしか教えてくれません。
まあ、大学は教育機関というより、
研究機関だから、そんなに教えないのかもしれません。
しかし、美大を出て露頭に迷う学生も大勢います。
大学としては、もう少し卒業後のフォローをしてくれれば、
もっといい大学になると思います。
これからの美大に期待します。
青春を謳歌する美大なのですから、
もっといい大学になってほしいです。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。