退職と独立

NYから帰ってきて、また日常の日々が続きました。しかし、NYで体験した出来事があまりに刺激的すぎて、仕事がおろそかになっていきました。ミスが増え、上司に怒られる日々、、、、、。

朝、仕事場に行っても気持ち悪くなり、5分で早退という日々が続きました。次回の企画展の企画書も書けなくなり、やはり早退ということになりました。

代わりに「絵を描きたい」という気持ちが大きくなり、仕事場でも自分のHPを見ている状態、、、。給料泥棒ですよね?そして、私は退職を決めたのでした。

私「部長、私、会社を辞めようと思います。」
部長「会社辞めて、どうやって生きていくんだ?」

会社員って、会社がないと生きていけないんですね。でも、私には絵がある。そう決心したのでした。ただ、私の体が無理がたたって過労になり、まず休職することになりました。10年間の会社員生活は、私の体と心を蝕み、半年ほど寝込むことになりました。

女性の会社員というと、9時5時でお気楽に働いているというイメージがあるみたいですが、私は入社時から管理職につき、展覧会の企画をしていました。展示替えの時などは朝の4時までやっていました。4時に帰ってきて、5時にはラジオ出演というハードスケジュール。休日は古本屋に行って、美術書を買い込んで研究していました。

学芸員は研究者なので、勉強をしなくてはいけません。通常の業務中には本など読んでる暇はありませんでした。研究はすべて残業でした。もちろん、残業代など付きません。そんな日々が過ぎていき、絵を描く時間はありません。私の作家活動への思いは限界に達していました。

学芸員の仕事は基本的には楽しくて、やりがいのある仕事でした。退職するころには、銀座・原宿などで講演会を開くことが出来るくらいになっていました。人前で話すことが苦手な私は、前の日、家で震えていました。

私は学芸員の時、たくさんの版画を購入していただきました。それを研究してデータベースに入力していきました。最近、学芸員の後輩がこの版画の研究を「日曜美術館」で発表していました。

約33回の企画展を開催し、私は会社を立ち去りました。体調は最悪で、家で6回倒れました。
夜も眠れなくなり、3日間一睡もできませんでした。「私、死ぬのかな?」と頭をよぎり、夜明けが怖かったのを覚えています。

美大出の友人からは、「会社辞めたのは当たり前。身分不相応。」と言われたり、心の底から嘲笑れたりしました。今思えば、かなり嫉妬されていたようです。私といえば、バイトなどで生計を立てて、絵を描いている友人が羨ましくてたまりませんでした。「隣の芝生は青く見える」ですね。

そのあと、コールセンターに契約社員として派遣されましたが、全くの畑違いでクビになりました。契約社員の時、銀座で個展をし、その時国立のギャラリーさんに名刺をもらいました。「よかったら来て」の言葉に誘われ、家も近いし、足を運んでみました。

雑居ビルの奥のひっそりとしたギャラリーでした。立ち上げたばかりで、お客様もいなく、閑散としていました。「私、仕事クビになったんです。ここで絵画教室を開きたいです。」という、突拍子もないお願いにそのギャラリーは応じてくれました。

実は契約社員の時も、月に1回だけ教室を開いていました。その経験を生かして、教室を大きくすることを考えたのです。(ちなみに教室を始めるときは、朝日カルチャーに履歴書を送って「日本画教室」を開かせていただきました。朝日カルチャーが新聞に広告を打ってくれて生徒が4名集まりました。4名のうち2名が辞めてしまって、残りの2名で別の場所で開催していたのです。)

そのギャラリーに移って、生徒募集をしたのですが1年間ほど誰も来なかったのです。ギャラリーさんからは「無理よ。人が集まらないわ」と言われましたが、私は根強く待ちました。1年が過ぎるころ、1名生徒が入りました。そこからはどんどん増えていって、2年後には35人まで膨れ上がりました。もちろん、HPも立ち上げ、新聞折り込みチラシやポスティングなども行いました。

生徒はどんどん入ってきました。しかし、その頃も作家活動をしていました。銀座のギャラリーのオーナーから「良いニュースです」と電話がかかってきて、直木賞作家の小池真理子の単行本の表紙に私の作品が装丁されることになりました。集英社のデザイナーさんが、私の絵を気に入ってくれたのです。なんと、私の絵の前は、かの有名な宇野亜喜良さんの絵だったんです。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です